学校教育の危険な賭け
2023年2月14日
近年の傾向として、思考を重視し、知識を軽視する傾向があります。
たしかに知識は、そこら中に転がっています。その一つ一つは事実であって意味を持ちません。それらが意味をもつ為には、人間の働きが必要です。人がまず意味をイメージして、事実と事実を結びつけるのです。そうした時、初めて知識が意味を持つことになるのです。
意味を持つ瞬間とはどういう時か。それは事実や事実の繋がりに対して、何かしらの感情が生まれた時です。
例えば「太陽が東から昇る」「太陽は西に沈む。」を結合させて「太陽が東から昇って西に沈む。」といっても、これは事実の連続でしかありません。しかし『「太陽が東から昇った」ので1日が始まった。「太陽が西に沈んだ。」ので1日が終わった。1日というのは「太陽が東から昇って西に沈む。」ことを言うんだ。』と思った時に意味を持つことになります。何故なら、生活に深く結びついた「1日」というものは、本来、法則でもなんでもなく、人間が勝手に、日常生活の中で、自らの感覚から決めた単位だからです。こうしてそれを基準として、1時間、1分、1秒などの単位が作られていきます。
何回、それが繰り返されると、また同じような季節、または星座の位置に戻るのかということが、農民にとって関心が高まり、1年という意味を持つ単位が作られていったのでしょう。そして多くの人にとって意味や価値が共有されていくのです。
また、意味付けられた事実の繋がりを、言葉や文章で、人に伝えた時、知識の共有ではなく意味の共有がなされます。その時、人は、共感を覚えたり、同意したり、または、その逆の反応をしたりします。もし、それが不十分であるなら、さらに、意味を持った知識を、伝達者は、頭の中で抽出し、結合させて、人に伝えます。
しかし伝達といっても、一般化されたものを伝えるのと、本質を伝えるのとでは、随分違います。前者であれば「赤いりんごを食べたら、甘酸っぱい味がした。」で十分です。しかし後者となると、少なくとも次の様な説明を加えた表現が必要でしょう。
「彼女とは2度目のデートだった。ここ青森であっても、ついこのあいだまで、外に出る事さえためらわれた夏の日差しも、幾分優しくなり、かねてより話題にあがっていた、りんご狩りに来ていた。二人は目の前のそれぞれのりんごをもぎると、互いに見せ合い微笑んだ。十分熟して赤かったが、かじりつくと、甘いはずのりんごも、僕には甘酸っぱい味がした。」
このように聞き手に新たな知識が加わることによって、赤いりんごがどんな意味を持つのかがはっきりしてくるのではないでしょうか。
近年、政府を中心として、国際的経済競争力を掴み取るため、または青少年の生きる力を培うため、知識偏重の教育をより実践的な教育内容にかえさせようと、国語では純文学を削って取り扱い説明書の読み方を、社会では出来事や人物名を削って探求力を、英語では英文学を削って日常の会話能力を、という様に、職業訓練的な内容を増やしつつ、パソコンを使ってのプレゼンテーションやディベート力を養わせようとしています。分かりにくいものが高級とは限りませんが、NHKでさえ番組を分かりやすいウケの良いものばかりに絞ってきているように思えます。
まるで思考こそが重要で、知識はツールでしかないといった流れの様に見えます。しかも知識は全てが暗記のみに直結している価値のないものと言っているかの様です。
しかし、思考を促すには、ツールとしての意味付けされた膨大な知識が必要です。そしてその意味付けには細やかで繊細な人の情緒が必要です。子供たちが、未来にわたって、一人一人自分と向き合い、他人と向き合い、自分を取り囲む諸問題や、諸現象を分析したり、問題を解決したりする能力は、良い意味での知識の獲得にかかっているのです。
受験のための暗記を是正することには大賛成です。しかし、思考する力は、思考するための知識を出来るだけ集めることから始めなければなりません。知識のない思考の追求は、まるで思考を停止して無の境地に至るために坐禅を組んで行う只管打坐になってしまうからです。
最近AIの精度があがってきていますが、深く繊細な問題の解決は、コンピュータのプログラムを書き換えるようなことではうまくいきません。何故なら、あくまでもコンピュータの得意なことは一般化であって、千変万化の人間に対しての個別化ではないからです。