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世界の人気を二分した指揮者カラヤンとバーンスタイン

 20世紀の後半、まさに日本の高度経済成長期から昭和の終わりにかけて、世界のクラシックファンを2分した指揮者が、ドイツのヘルベルト=フォン=カラヤンとアメリカのレナード=バーンスタインです。

 日本の家庭においても、高級なステレオセットでレコードやカセットレコーダー、FMステレオ放送が聴けるようになり、オーディオブームが到来した頃、巷で話題だったのが、歌謡界では「松田聖子派か中森明菜派か」、クラシック界では「カラヤン派かバーンスタイン派か」というものでした。日本ではカラヤン人気が勝っていました。

 当時私は大学の友人達と競うように、オーディオでクラシック音楽を聴くようになりましたが、私は「バーンスタイン派」でした。

 「バーンスタイン」は、ダイナミックでこ気味良いドラマチックな演奏が得意で、演奏家の一人一人の個性や良さを引き出しながら、一つの作品にまとめるという手法です。本番のライブで偶然生まれる音楽の結晶をこよなく愛し、人間味にあふれ、大いにぬくもりを感じさせる彼の音楽と人間性は、オーケストラにも大衆にも絶大な人気を博していました。また彼は試みとしてクラシックとポップスを融合させたブロードウェイミュージカル「ウエストサイドストーリー」の作曲家でも知られ、若者向けのクラシックの楽しみ方のTV番組にも携わり、音楽の普及や後進の育成にも勢力的でした。

 これとまさに対照的な「カラヤン」は、自分の音楽性と美しい響きを徹底して追求し、ライブではとかく成り行きで微妙にずれる音程やリズムや響きに妥協することなく、オーケストラを完全に服従させる手法です。聴こえ方を重視して楽器の位置や数を調整するだけでなく、ライブ録音の伝統を破り、聞こえ方がより調整しやすいスタジオ録音にも積極的に参加して、レコーディングの仕組さえ変えました。その音色はひたすら美しく、当時は映画音楽向けとか女性向けとか揶揄されることもしばしばありました。

 また彼は、それまで常識を変え、オペラを作曲者のオリジナルの楽譜に記されていた言語に統一して上演させました。それまで歌手はそれぞれが自分の母国語で歌うのが常で、しかも他国からのゲストが混ざった場合、ステージから複数の言語による合唱さえあったそうです。彼もまた後進の指導に力を注ぎました。

 ニューヨークフィルを拠点に活躍するバーンスタインと、ベルリンフィルを拠点に活躍するカラヤンでしたが、晩年は、世界のオーケストラに招かれ、当時としては珍しいほど、多くの作曲家の曲をレパートリーに持っていました。

 そんなある日、FM放送でカラヤンの新しい録音の「ワーグナー」を聴く機会がありました。「ワーグナー」といえば、大音響とともにエネルギッシュに演奏されるイメージでしたが、そのカラヤンの音楽は、艶かしく、耽美で、まるで鋭利な刃の上を指でなぞっているような妖しく際どい官能の世界に私を導くのです。背筋に冷たい感触と不思議な心のざわめきを覚えて、今までにないワーグナーとカラヤンの魅力に引き込まれて行きました。

 ほどなくして、FM放送でバーンスタインのウィーンフィルとのライブ録音が流れて来ました。曲名は「ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番(オーケストラ編曲版)」でした。こんなにどこまでも切なく美しく情熱的なベートーヴェンがあったんだと思いつつ、息苦しいまでの美しい音色となっているバーンスタインとウィーンフィルの奇跡的なアンサンブルに酔いしれました。

 その後カラヤンはかつて犬猿の仲と言われたウィーンフィルのニューイヤーコンサートで指揮をとり、平和のメッセージを世界に向けて発信しました。バーンスタインはベルリンの壁が崩壊すると壁の前で世界から呼び集めた演奏家とともに、フロイデ(歓喜)ではなく、本来シラーが望んだフライハイト(自由)に変えたベートーヴェンの第九を演奏しました。

 世界の平和を熱望し、若者の未来を信じた二人はまもなくなくなり、一つの時代は終わりましたが、不穏な世界情勢が多発する今こそ、その熱い思いが実を結び、そうした活動がここかしこと生まれていって欲しいと、思う次第です。

ミネルヴァの梟がいま飛び立つ