「自然哲学」それは哲学と科学のはざま
自然哲学とは、およそ今から2500年前のギリシアのソクラテスの頃から特に発展した分野です。
現代人からみても、その先進性は見事なもので、太陽中心説(地動説)、地球球体説、元素などの考え方と、それをもとにした実測地図や地球の外周などの計算は、大変精度の高いものです。しかし、科学的かというと大変惜しいところにあるため、これらを「自然哲学」と呼びます。
何故なら、先程あげた太陽中心説(地動説)、地球球体説、元素などの学説は、一切、数値化された計算結果によって裏付けられたものではなく、頭の中に浮かんだ直感にのみ依存しているからなのです。しかしその前提が証明されたものでなくても、その発想に基づいた計算結果は、科学的な結論と近似値なのは、驚くべきことです。
しかし、必ずしも、現代科学の結果と同じとは言えない場合もあります。例えば、かの有名なアリストテレスは、同時に手から離れた落下物は、重いものが先に落ち、軽いものが後から落ちると言っていますが、皆さんがご存知の通りこれは間違っています。長い時間誰も確かめることもなく、これを証明したのは、ずっと後のガリレオやニュートンです。
ではアリストテレスとニュートンの明らかな違いはなんでしょうか。端的に言うと、頭に浮かんだ発想や概念を、実際に調べたかどうかです。
おわかり頂けたでしょうか、頭の中だけの思考から生まれたものが哲学または自然哲学で、実際に調べたものが科学なのです。
先程冒頭に挙げた学説の種明かしをすると、全ては宗教的直感から生まれたもので、太陽神崇拝による太陽中心説であり、万物は神が作ったものなら地球は完璧な立体であるという説による地球球体説などが元になっているし、落下の法則はそれぞれの物体が持っている地面に落ちたいと思う強い意志の差があるはずだという概念や思い込みによるもので、何ひとつ調べたことがない代物だったのです。
すなわちたとえ証明されたものでなくても、念入りに実験観察が試みられたものなら科学的と言っても良いわけなので、その対極にある、未確認飛行物体や生物、神霊現象や超能力、さらには宗教などは非科学的と言われることになります。
ただし、科学にも限界があります。それは何事も、3次元の世界に生きている人間が把握出来る数値結果に導かれていることです。ご存知の通り、3次元世界とは「縦✖️横✖️高さを」認識出来る世界で、4次元世界は「縦✖️横✖️高さ✖️時間」を認識出来る世界ですと言うことができても、3次元世界の我々人間は、4次元世界を認識できないし、人に対して表現も出来ません。最近流行りの6次元世界などの高次元を扱う理論はなおさらで、ただSF小説や映画でごまかしの表現に頼らざるを得ない「概念」の世界となります。という事は、これらは限りなく、古代ギリシア時代の自然哲学に近い存在とも言えるのです。
であるなら、かつて直感に導かれた概念の中で、以外に多くの「存在」が証明されたように、現在、非科学的な分野に扱われているものの中にも、将来的にその存在が証明されるものがあるやも知れません。
ここで私は、非科学的な表現で締めくくろうと思います。
それが存在するか否かは「神のみぞ知る」です。