人生の中で最も怖かった出来事

2022年11月2日

 世界文化遺産の宮島厳島神社に海に浮かぶ能舞台があります。私はそこで何度か能を舞ったことがありますが、そこで最も怖い経験をしました。

 客席から見て少し下向きにするため、お面の内側のおでこの部分に小さな座布団をテープで真横に2本で止めます。本物の能面は無表情と言う表現にはまるで程遠い生々しく繊細な表情を持ちます。常に宮島ではリハーサルはありませんし、お稽古の時もいっさいお面は付けないのがしきたりです。

 さて本番前に重大なミスを犯しました。お面をつけるときに紐を後頭部側できつく結ぶのですが、たかをくくってほどほどにしてしまったのです。経験の浅さからその油断がどんな結果をうむかは想像出来ませんでした。

 演目は「黒塚(安達ヶ原)」で、特に後半につけた般若の面は神社に伝わる由緒あるもの。角が大きく通常よりかなり重くて左右上下非対称。

 そして事件が起こりました。予想以上に重いお面は、牛の様に低い姿勢から斜め45度に角を激しくつきあげて僧侶に向かう動きの度に僅かに浮き上がっては戻るのです。ついに例のテープが剥がれて視界が消滅しました。

 さあどうする。まだ演技は中盤にさしかかったところ。しかもクライマックスに向けて、囃子も謡も切れ間なく畳み掛けてきます。要求される動きはさらに増えます。ピンチを察する者もいないので誰も助けにきてはくれません。

 残された道はただ一つでした。それは第二の目を使うこと。かろうじて足もとだけを映し出す二つの鼻の穴からの視界だけで舞遂げる事です。

 方角を床板の向きで判断し、あとは体が覚えている通りに身を任せて動かすしかありません。気配でワキ方の僧侶たちに迫っては足を止め、身を替えしてはまた迫る。間違えば確実に海へ落ちます。

 さていよいよクライマックス。本舞台から日本最大級の長さを誇る橋がかりを通って全速力で揚げ幕に向かって走り込みます。しかしどこが終点か全くわかりません。ここだと決めて足を止め、拍子(足踏み)を踏んで正面向いて、全てを終えました。

 幕があがった時、幕はお面を擦りました。奇跡的に幕の中(楽屋)へ突っ込んでなかったのです。

楽屋に入ってお面を外してもらったとき、介助の人が目を丸くして私を見ました。

 「途中から全く見えませんでした。」というと、私は命拾いしたことを実感しました。

 例えるなら、地上の基地からの指令がないまま、手動でスペースシャトルを操って地球を周り、大気圏に突入して、無事にランディングを成功させたことと同じなのです。

 今思い返しても、ぞっとしますが、日頃の訓練は身を助けるのだと実感した出来事でもありました。

ミネルヴァの梟がいま飛び立つ