④多言語レッスンは異文化コミュニケーションです。(スポーツ)
私たちが知っているような運動会(体育祭)は日本ならではのイベントだって知ってましたか?
イギリス人に聞いてみると、個人の競技大会に出場者だけが自分の出番の時だけ参加して、特に応援はないそうです。
中国人に聞いてみると、小学校から体育祭はあるらしいのですが、優秀な人が選ばれて、そうでない人たちは、小学校から高校を卒業するまで、朝から晩まで旗を振って応援するだけだそうです。
もちろん、マスゲームやダンスもなければ、騎馬戦も玉入れも綱引きも、集団で行う種目は、皆無にひとしいとのこと。
いつかNHKの番組で、出てくる外国人が口を揃えて言っていたことは、スポーツは学校では、あまり一生懸命に実施しないとのこと。理由はなんと、教育的ではないとのことで、ビックリさせられました。
確かに、記憶を辿っていくと、まだ日本のサッカーが弱かった頃、日本人は、クリーンな戦いをしていて決して強くありませんでした。
しかし、海外に修行に行った選手が学んできた事は、いかに審判の目を盗んで反則まがいのことをするか、いかに相手の反則を引き出すか、いかに大袈裟なアピールで審判をだまして相手の反則を勝ち取るかとういうような、サバイバル的な戦術だったことを思い出します。国際的な大会では常套手段で、ある意味暗黙の了解があるほどでした。
さすがに国際化が進み、TV局が動画を使って詳細を映し出すと、人々も、判定の妥当性や、あまりにも危険な行為やあまりにもあからさまな詐欺行為について、真剣に考え問題視するようになりました。
ヨーロッパではどちらかというと貴族のレジャーとして始まり、一般大衆の娯楽に発展する中で、人々に希望や感動を与えてきた近代スポーツも、時代によっては各国の国威高揚に利用されたり、ギャンブルが伴ったり、はたまた、興奮したサポーターが暴動まがいの事件を起こしたりと、国によって様々な姿を表してきています。
以前と比べれてだいぶクリーンになりましたが、スポーツは決して、清々しいものだけではないという考えもある意味うなずけます。
さて、日本の学校の体育や運動会は独自に発展してきたものですが、特に戦後、社会主義思想が学校の中で浸透し始めると、順位を決めないような流れに変わって来ました。さらに近年そんな教育方針が浸透したためか、はたまた、個人が目立つことを嫌う子供達が増えたせいなのか、個人の競技種目はめっきり姿を消して、無難な集団競技が増えるだけでなく、競うことのないダンスパフォーマンスや応援合戦が益々主流になってきています。
見学するたび、昭和に育った私には少々物足りなさを感じる学校運動会ですが、子供達なりには、十分楽しめて満足できるようなイベントになっているように見えるのは、良い意味での日本の平和をもっと享受するべきなのかもと思う、今日この頃です。